芸大時代の友人、岡田雅人くんの自邸が完成。たまたまですが自邸ネタが続く・・・。
といってもこちらは協力という形で関わった物件なのでちょっと特別。様々な苦労の末にようやくお披露目となったこの日、感慨深いものがありました。
彼がぼくの所にやってきたのは2年前の夏の終わり。すでに基本設計を終えて実施設計中で、これからどうやって進めるかという段階だった。事務的なアドバイスをしたり業者を紹介したりという程度の協力で、思い返すとその時から今の今まで、彼のその設計やデザインに対してまともに批評したことはなかったと思う。
それは意識的にだと思う。何か言いたくてウズウズしてくる職業病を意識的に。建築家が「自邸」を設計するのに、もう一人の建築家が口を挟むものではない、と勝手に思っていた。思う存分好き勝手に好き放題やらせてあげるのが一番いいに決まっている。自分がその立場なら絶対にそうだ。
もちろん彼はそこまで考えていなかったかもしれない。だからこそ「もう一人の建築家」のところに相談にやってきた。様々な覚悟や不安を抱えていたに違いない。
ここで「めもていど」の感想を書き留めておこうと思う。面と向かって言わないでこんなところでいうのも卑怯だが、ちゃんとした文章にしておきたいし、それで伝えるのも悪くないだろう。実はオープニングでの来客の反応があまりに好意的なものばかりで、嫉妬すると共に誰かしら批判的なことを言う人がいてもいいのではないか、という思いもある。でないと今後の岡田くんにとっても良くないのではないか、彼にはこれに満足しないでもっと試行錯誤を繰り返して更に建築の深みにはまって欲しい(笑)。一番身近にいた自分がその役割をしてみよう。・・・って本当に偉そうですみません。
以下実際に建物を見た人じゃないと意味が分からない内容と思いますがお許しを。
建物は世田谷の小さな商店街の一角に建つ3階建てのRC造。1階を設計事務所とした兼用住宅である。決して広くはないそれぞれのフロアを細分化し、様々なレベルを設けてアーチの開口部でつないでいる。「境界の家」と名付けられたとおり、都会と郊外の境界とも言える立地では見る方向によって異なる景色が取り込まれ、開口部という境界を通して様々な空間とシーンが連続して見えるとともに、体験できるようになっている。
ところで、大学院だけ芸大に行った自分と違って、生粋の芸大生の彼はとにかく絵がうまい。ご両親、お兄さんは音楽家で美術品の収集が趣味という芸術一家だ。彼自身は普段イラストやグラフィックといった仕事が多く、今回の自邸はほとんど処女作と言っていいくらいの建築作品である。だからというわけではないかもしれないが、所々で自分とは思考の仕方が違うなあという思いがあった。
スケッチブックにさらっと書く絵がこれまた芸術的で、OHでずらりと並べられたものを見ても思うのが、とにかくアイレベル(人の目線)の視点によるパースが多いということ。つまりそこに立ったときにどう見えるか、何が見えるか、おそらく彼の頭の中はそのことでいっぱいなのだ。
それに対して自分はもっと俯瞰的に見ている。スケッチブックにあるのは平面図ばかり。つまり人がどう動くのか、場所がどうつながるのか、そういうことばかり考えている。
もちろん彼も平面図を書くし、自分だってパースを書くけれども、その比重が圧倒的に違う。どちらがいいとは端的に言えないけれども、その違いが自分のこの作品に対する批評になる気がしている。
一番感じたのは場所と場所の関係をもっと身体的につないだ方がいいのではないかということ。これもそもそも意識の違いで、彼はおそらく「境界」において「つなげ方」よりは「分け方」を思考しているのではないかと感じた。「つなげ方」と「分け方」なんて結局同じことになるのかもしれないが、ようするにアプローチの仕方が逆だということ。
1階の事務所スペースと2、3階の住居スペースは一度外に出てからつながる形で完全に分離しているし、2、3階もフロア同士は分離して階段部分でのつながりしかない。段差があるのでそれが各階での天井高に影響し合ってつながりがあると言えなくもないが、段差はどちらかというと「つなげ方」より「分け方」を検証した結果だろう。隣り合うスペース同士も見え方という意味での「つなげ方」は存分に検証されていると思ったが、空間的・機能的に、積極的につなげることまで考えてはいないようだった。
もっとも彼は逆に意識的に分けたと言うかもしれないし、その分節には理由があるだろう。しかしそのことによって可能性が失われる懸念もある。つまり分節されている場所と場所が、あるときには一体になるとか、違う使われ方をするとか、もっと言えば1階の事務所さえ住宅になるような「つなげ方」があってもよいのではないか。それは日々の建築の使われ方としてもそうだし、将来的な変化などに対する可変性(フレキシビリティ)とか住まい手が手を加える余白という意味でも。
また仕上げの色に関することも興味深かった。カラフルな色を使うわけではないが、フローリングの色を濃淡で分けたり、壁や天井の色を白、黒、グレーと塗り分けている。その色の違いも「境界」をつくるひとつのツールになっているわけだ。このことは特に「つなげ方」よりも「分け方」を考えていることの現れだろう。
自分ならもっと建築的な要素、例えば壁とか段差とか天井高とか、あるいは素材そのものとかそういったものだけで分節する。建築を成立させるためにどうしても出てきてしまう要素で、できれば分けたくないがどこまでつなげられるか、あるいは緩やかに分けられるか、を考える。もちろん色だって立派な建築的な要素なのだけど、それは平面図的な思考ではなかなか出てこない、パース的な思考で見えてくるものだと思う。
現場で色を決めるときの彼には隣で見ている限りあまり迷いがないように見えた。自分なら色を付けるかどうかを迷うところを、もうすでに色を付けることはその徹底した思考の中で決定済みだからかもしれない。
この建物はコンクリートの打放しで、荒々しい構造がそのまま見えるというデリケートな仕上げであるが、どうしても汚くなってしまったところは表面的に「補修」が施される。自分としてはこの「補修」が「補修したと分かる」くらいきれいだとなんだか気持ち悪くて、この現場でもその点にはこだわって指摘した。しかし今思うと彼の方はそこまで気にしていなかったかもしれない。最終的にどう見えるか、きれいに仕上がることが大事であって、「補修したと分かる」という背景や意味するところはそれほど重要ではないのではないか。
その証拠にボードで作った天井や扉にコンクリート風の「絵」を書いてそれを仕上げにしていたりする。一目見るとコンクリートだと思うので、叩いてみると軽い音がしてびっくり。もちろん単純に「おもしろい」とは思うけれども、自分にはできない離れ業だ。しかし彼には実際にそれがコンクリートである必要はなく、コンクリートに「見える」ことが大事なのだ。自分が背景を読み込む経験的な思考だとすると、彼の場合は現象的な思考と言える。
しかしながら、こういったことを当初から完成にいたるまで口に出さないで本当によかったと思っている。実際に仕上がって体感してみて、このようになるとは自分が想像できていなかったことが分かった。空間体験のシークエンス、あるいは連続する見え方、タテヨコのプロポーション。とてもきれいに見えてそして気持ちよく感じられた。特に3階の南側に向けて、手前から奥へと段々と視線が抜けてゆくその経験はすばらしかった。
実は自分は可変性や余白を担保しないと作れなくなっている。積極的な意味で前向きにそこを目指している自覚はあったが、それで「逃げを作って」いるつもりが文字通り「逃げ」ていることになっていないか。レベル差をつくること、強い壁をつくること、あるいは色をつけることに抵抗を持つようになってしまった。しかしそれは経験的で消極的な理由によるところも大きく、それによって失っているものもあるのだということが分かった。一体誰が経験的な思考でもって見るのかと言えば、ぼくら建築関係者だけなのだから・・・。
岡田くんの場合は彼の知識や経験という意味で、経験的思考には成り得なかったのかもしれない。しかしそれゆえにできたことは大きく、その初々しさや情熱、そして正直にまっすぐに自分のつくりたいものに没頭している姿を見て、勇気づけられました。
感想や批評と言うよりは自分と比べるうちにとりとめのない反省文のようになってしまった・・・。しかしこういった形でもう一人の建築家の設計、しかも自邸の設計に関われたのは幸運だった。そしてなにより良い経験になったと思っています。
どうもありがとう。そしておめでとう!
これから更にすばらしい家になることを祈っています。
